昭和48年12月31日 除夜祭
御理解 天地書附
「生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり、今月今日で頼めい。」
生きておる以上否応無しに、お正月がくれば歳を一つ重ねなければなりません。これは、否応無しであります。だから否応無しに迎える、お正月であったりただ歳を重ねるだけ、これでは生き甲斐がないと思うです。本当にお正月をいやが上にも有難いもの、いやが上にも目出度いものとさせて頂く所に、私は「日頃の信心」それをとりつかねて、今日の除夜祭ともなって来るのだとこう思うのです。お詫びを致しましても、お詫びを致しましても、お詫びのしきれないほどのお詫びを、ここ二、三日特に感じます。
知った御無礼御粗末、知らず知らずに犯しております御粗末御無礼。それも迂闊に迂闊にしておる事の為に、気が付かないでおる御粗末御無礼。二、三日の前の夜中にここへちょっとお礼に出て来る事がありまして、出てきましたらここの御信者さんの足元だろうと思うんですけれども、みんな「黒足袋」を履いている所を頂いた。あれが「白足袋」を履いておれば、少しでも汚れればすぐ目立つし、また洗濯もするし取替えもするのですけれども「黒足袋」を履いておるものですから、汚れが分からない。
いわゆる知らず知らずのうちに、汚れを汚れとも気付かずに、当たり前の事のようにしておる御粗末御無礼があると言う事だと思わせて頂いて、その事をお詫びさせて頂いておるのですです。言うならば御詫びが叶うた許されたと言う所に、私は有難いものが頂けるのだと思う。汚れ果てたまま御詫びは叶わんまま、それこそそれでは否が応無しの御正月であって、口ではあけましておめでとうと言うておっても、それでは神様が目出度い心を許しなさるはずがない。
有難い心を許しなさる筈がない。許されて御正月を弥が上にも有難いものにして行くおかげを頂かせてもらう。昨日私は、私どもには大した盆も無からなければ正月も無いという生活をさせて頂いておりますから、慣れたものですけれども。と言う様な事を思いよったら、天地の親神様には矢張り盆もありゃ正月もあると、大晦日もあるんだという意味の事を頂いた。どういう事か分からんけれどもやっぱ、金光大神には盆も無ければ、正月も無い。そこで教祖様は私どもに、教えて下さっておる事はです。
「日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々に嬉しゅう楽しゅう暮らせば、家庭に不和は無い」と仰る。私共の日々の信心生活というものは、日が暮れたら大晦日と思うてという様な日々でなければならない。夜が明けたら、それこそ家内の顔を見たら、「やあ、おめでとう」と、思わず言わなければおられないほどしの心の状態で、日々を過ごさせて頂く事を、教祖様は教えられた。ですから、これが御道の信心をさせて頂く者の、一番理想的な生き方だという事になります。
昨日日曜ですから、特別奉修委員の方達の特別御記念がございました。その時に私が頂きますことはある教会の事を、お願いさせて貰いました。そしたらサンタクロース、それが、サンタクロースが、大きな袋を担いでるんですけれども、小さい袋びっちゃげたごたる袋を担いでおる。そして小さい子供におんぶしておる所を頂いた、サンタクロースが。私は何とは無しに、まるきり自分の事の様に思うて冷っとした。サンタクロースと言や、クリスマスの前夜に子供達が。
日頃お母さんの言う事をよう聞く子供達は必ず、サンタクロースが、あんた達が眠っておる間に、様々なプレゼントを持って来てくれるんだ」と子供は信じておる。眠ると母親は、枕元に子供の好きそうなものを、色々用意しておる。目が覚めるといやぁサンタクロースが持ってきたと言うて喜ぶ。私は御道の信心は、大体そう言う事になって来るんだと思うんです。取次者私言うなら、取次者金光大神には、おかげを渡される力は無い。おかげを渡せるのは、どこまでも天地の親神様なのである。
金光大神はどこまでも、それを取り次がれるだけの事である。その手代わりである所の私共もやっぱりおんなじ事。私に力があるのでは無い。私がおかげを渡すのでは無い。私がおかげを渡すのでは無いけれども、御信者さん方はどう言うかと言うと、親先生あなたのおかげでと言うです。私は御道の信心はどこまでも、親先生あなたのおかげでと言えれる信者であり、取次者にならなければならないと思う。所がどうでしょうその取次者が云うならサンタクロースが、プレゼントを持って来るのじゃない。
親が母親がプレゼントは、ちゃんと用意してあるのである。けれども子供はサンタクロースが持ってきたと信じるのである。私が皆さんにおかげを渡すのじゃないけれども、天地の親神様がおかげは下さるのだけれども。けれども親先生のお取次ぎのおかげで、親先生のおかげでと言う。そういう親先生のおかげで、おかげを頂いておるという信心が、私は御道の信心では尊いと思う。昔から良く言われる『神様のおかげで、おかげ頂いた』というような教会では御比例は立ってない証拠だと言われておる。
甘木辺りの方達の場合なんかは、どの方の話を聞いても『親先生のおかげで、親先生のおかげで』と言う。安武松太郎という人がどういう力、大徳を持ってござったにしても、おかげを下さる事は出来んのだ。おかげはやはり、天地の親神様。サンタクロースが、おかげを下さる事は出来ないように、おかげをくれておるのは、親なんだけれども。サンタクロースだと信ずるところに御道の信心がある。
所がサンタクロースが子供におんぶしておる。子供に頼っておる。信者に頼っておる。信者にすがっておると言った様な教会で、おかげの頂けれるはずはない。信者がへとへとしよる。はぁ神様にお願いする、神様にお願いすると言いながら、神様にお願いしよらん信者にお願いしよる。だからお参りすると先生からお願いさるるけんでと思うて、いわば、出来るだけ先生と会わんほうがいいと言った様な教会がある。
これなんか、先生が、やっぱり信者に負われようとしなさるから、負おうごとない訳なんです。おかげは頂きたいけれども、先生をおんぶしょうごとはない。又、先生も、おんぶしてはならない。これは、他人事じゃない、私自身も、本当に、御結界の奉仕をさせて頂くということが、例えば、大坪の家の生活の為に、私が座るという事であったら、そこには値打ちは無い。
ただ神様の御用一筋に、奉仕の事が有難いという事になって、初めて良い取次が出来るという事になるのですけれども、なかなか良い取次が事実、私出来ていないと言うことを思わせて頂いて、その事を二三日とりわけ私の取次によって、信心の稽古をしておる方達が、みんな黒足袋を履いておるという所にです、白足袋を履かせ得ていない所にです、私の、信心不行き届きを感じさせて頂いておるのでございます。
それでも今朝から、皆さんお礼に出て見える。改まってお礼に出て見える方達のお届けを聞かせて頂いて、一緒に有難た涙がこぼれる思いが致しました事でございますが、中でも善導寺の原さんが、一家中で御参りになってから、一家中と言うが昌一郎さんと二人で御参りして来てから、一年中の事を様々とお礼を申された。それは原家にとっては、大変なお年であった。中心である所のお父さんが亡くなられた。
亡くなられた鼻は仕事が減りはせんか、無くなりはせんかと心配した。所がおかげで仕事は段々返って増えて、おかげを頂いておる。親先生昨日はお餅ちつきを一家中でさせて頂きましたが、私の方の主人はお餅ちつきが非常に好きな人でした。お餅ちつきが好きな人でした。と言いよったら絶句してから感動しておられた。此の頃御霊様の事は忘れた様になっておったが、あの餅つきの音を聞き出したら感動が始まって来た。お父さんが餅つきが好きであったが。
今日はお父さんが好きなお餅を作って、何かこう色々な餅つきの後の、いつも同じ様なお御馳走をして、それが大変楽しみだったらしい。それでそういう物を作って、御霊様の前に御供えをさせて頂いて、一家中の者でお礼を申させて頂いた。もうどうにも出来ない感動でしたとこう言う。一家中と言うても、息子と嫁と孫達ですけれども。どんなに考えても家はおかげ頂いておるばい。と言うて色々おかげを頂いてきた話をさせて頂いた。おかげでお金が残ることも無いけれども。
借金払いも綺麗にし大きな店を張って、大変従業員も使って立派な洋服屋をしておられる方がありますけれども。それこそ歳の瀬が越せずに、汲々言うておる人達もある中に、昌一郎さん、ほんとに借金払いも済んでしもうた。おかげを頂いて正月の用品も、充分過ぎるくらいに色々と取り揃えさせて頂いて、しかもお餅ちつきまで出来た。ほんとに考えてみれば、とにかく金が貯まるとか、あり余る様にあると言う事が、おかげじゃないね。ほんとにおかげ頂いとるばいと言うて。
お話をさせて頂いておったら、信心はさほどに分かっではいないと思うておった嫁がです。「お母さんそげん言いなさりゃ家は、何とはなしにおかげ頂いておりますもんね」と言うて、一家中の者が喜び合うた。「明日は年末でお互いが、親子で銘々に出来るだけのことをして、出し合うて明日はその事の、一年中のお礼を申させて頂かなければならん」と言うて、原一家一同で御礼の御届があった。
しかし頂いておって、原さんそげん言やね、昨日和子さんが御参りしてきてから、今日は原の小母しゃんの所では、裏で餅つきがありよったが、その餅つきの音を聞いたら、どうにも出来んほどに感動しましたと言うて、和子さんが言いよったよ。成程あんたが有難うして、有難うしてお餅がつけると言う事が有難い。そこからです、信心生活させて頂いておる者の有難さが、そういう雰囲気の中に、人までも感動させるほどしのものが、何かがあったんだと言う事を感じたか。
和子さんがそげん御届けを昨日しよんなったよと言うて、話したことでした。信心をさせて頂くならば、本当に家庭が円満で、どういう事があっても、今日は北野の堤さんの一家、それこそ一家中で御礼参拝して来た。あの様に体が不自由でありますから、けれども、この頃は大変おかげを頂いておる。町会議員をしておりますから、議会にも度々この頃出させて頂く。それこそ商売も、ただ女手一つでやっておりますけれども、不思議におかげを頂いておる。
それこそ何とはない所ではない、はっきりおかげを頂いておる。先日なんかは土井の上ん段の家が火事になった。それこそ本当に紙一重の所で、大きな倉庫がみんな藁工品ですから、もう直ぐ燃え上がる様なものばっかりである所をです。それこそ一生懸命に一家中の者で御祈念させて貰うた。おかげで風が風下にならず、風向こうの方へ吹いた。おかげで助かったという御礼御届けをさせて頂いておったがです。
その朝に御夢の中に、堤喜代司さんがわりわり怒こっておる藁の灰の中に座って、まっ裸で一生懸命御祈念をしよる所を頂いた。前のその朝にちゃっとそんなお知らせを頂いておった。とてもとてもありゃお父さんの御霊様が、守っておってくれたと思わにゃおられないと言うほどしのおかげを頂いておりますと。堤の家にとっては、大黒柱であるところの若い主人が亡くなったんだけれども。
おかげで、身体の不自由な両親を抱えながら、嫁後が一人でしておる様な商売ですけれども、何とはなしに、今迄は、注文を取りに行って、大変な手の入り用だったけれども、出来ただけは、カツガツ注文があって、おかげを頂いて、辻褄が合うていっておると言うて、喜んで御礼を申させて頂いておりました。ですから、そういうおかげを、言うならば、皆さんの一人一人が頂いておるんだと思うんです。そのおかげを、おかげと実際、実感し得ているかいないかという事なんです。
今朝からの御祈念をさせて頂いておりましたら、どういう事か分からない。昔唄の文句に、こんな文句があります「私とあなたは川端柳、水の流れを見て暮らす。」という唄である。「私とあなたは川端柳、水の流れを見て暮らす。」そして今日の教典の中から頂いた御教えが、教典の一番最後にあります「真心の道を迷わず、失わず末の末まで、教えつたえよ。」と言う御神訓であった「信心の道」と言う事を「真心の道」と書いてある。御道の信心は只仏様を拝んでおります。
神様に参っておりますというのが信心ではない。真心の道なのだ。真心の道と言う事を、今日は『信心の道を、実意の道』だと、御理解に頂いた。信心の道とは実意の道。いかに、心に、実意を感じておっても形に表す事が、実意を欠いておったら、もうそれは実意では無い。どんなに形に「あなた、こなた」と言うて、いかにも、実意丁寧のそれを、私は、化け物だと言うんですけれども。いかに「あなた、こなたと」言うておっても、心に実意が無かったら、それは信心では無いのだ。
今朝から私は御祈念中に、今豊美達夫婦が来ております事を、お願いさせて貰いよった。そしたら私も実は見た事がないんです。佐賀には大きなハンギリというのがありましてね、いわゆる桶の大きいのです。それに乗って菱採りをする。それを大きなハンギリ丁度家の泉水の前にある様なハンギリ。こんな大きな酒屋さんが使いよったのです。ですから二人は充分乗っても沈まない様なもの。そのハンギリにですね、豊美逹夫婦が乗っているんです。背中合わせにこうやって。
威智雄さんはこちらを向いてから魚釣りよる。そすと豊美はこちらを向いて菱を採っておる。この人達夫婦がこれから頂いていかなければならん事だなと思うた。菱の実と言えば、それこそ、栗よりもおいしい様な中身があるけれども、ジガジガがある。中身は実意であっても形に実意がない。しかもです古川の長男、そしてその嫁であるならば、古川一家という事の上に大きな責任を持って、感じていかなければならないのに、ただ自分逹二人が誰も他に二人乗ってるから乗られん。
今度こうしておかげ頂いておる、今度帰りにはこの事をよくよく分からせて、お土産にして帰らせなければいけないなと思うた。私は心が実意だからだけではいけんのだ。形だけが実意丁寧だからと言うのではいけないのだ。それを信心というじゃと、教祖は仰っておられる。信心とは真心。真心とは実意の道を言うのである。そういう道を自分のものにしておかなければならんのだけれども。それをお互いの場合は「私とあなたは、川端柳である。」水の流れを見て、ただ暮らしておるだけであって。
成程合楽でおかげを頂いておるおかげというものは、それこそ一分一厘の間違いのない働きに、ただただ恐れ入ってしまうと言う。昨日一昨日百万円どうでも払わんならん。七十万しか無い。それがもう取りに来るまでにきちっと揃うてしまう。今日はどうでも二十万要る。そら繁雄さんも一生懸命。所が今日はおかげで三十万、五万余ったんですか。二十五万払うてしもうたらもう後、今年は五万残っておる。ほんなら今日は取りにこんばいち言いよったら、ほんとに払うとも無い五万円の財産であるけれども。
そういう日々が繁雄さんの言われる、只々恐れ入ってしまうというおかげを、皆さんに見てもろうたり、聞いてもろうたりしておると言う事が是は水の流れを見て暮らしておるという事ではなかろうか。金光大神と言う、天地から流れ出てきておる、金光道と言うか、金光の水の流れというものが、また大海にそそいでいる。この水の中に私共は浮かされて、浮いておらなければいけないのである。けれども岸の柳の様にです「ただ、水の流れを見て暮らしておる」というだけ。
神様は間違いないなと言うておるだけ。又は間違いないなというおかげを、自分達も時折頂いておるだけ。是ではいけない。水の流れを見て暮らすだけではない。その水の流れの中に入って行くと言う事が、御道の信心を迷わず失わず、末の末までも教え伝えられると言う事は、金光様の信心ども止めどもするな、とても有難い神様ぞおかげが頂かれるぞだけでは、是は子に孫に伝わってはいかない。
自分自身が信心の道を体得しなければ。信心の道とは、実意の道である「実意」とは形と心が、一つに真心でありその真心が表されて行く有り方というものが身につかなければ、信心の道と言うことにはならない。そういう信心ならばです、必ず子にも伝わる、孫にも伝わるだろう。そういうおかげを頂いて頂きたい。今日お祭りのこちらへ出ろうとする時に、今日は幹三郎が今月例祭に親教会におかげを頂いております。今日も昼のお祭りですから、あちらでおかげを頂いております。
あちらではやはりひな形紙に書いた、祓えつものを出しておられるから、祓えつものを持って、沢山御参りがあっておる。家はあれを六月の、大祓式の時だけしか使わない。それを聞きながらこりゃ来年から、家もそうしなきゃいけないなと。例えば是だけの人しか集まらんのだ大祓式に。是だけの人が祓われるだけの事だ。御参りが出来なくてもとにかく、今日は愈々、明日は正月を迎えねばならんと言うので、てんやわんやして、まだ済んでいない人達もありましょうから。
だからそういう人達でもです、やはりひな形だけででも御祓いを受けられるくらいなおかげを頂いてです。祓われた清らかな心をもって、元旦が迎えられるようなおかげを頂くために、気分の上にでもおかげを頂かなければならん。来年から家もそげんせにゃいかんなと言うて話したことでした。皆さんは幸いこうやって御参りが出来て、御祓いも受けられた。そして今日の私の話も聞いて下さった。
私共こそ「黒足袋」を履いておる、「白足袋」と履き変えて、心行くまでお詫びをさして貰い、心行くまで御礼を申させて頂いて、そして新たな年を迎えさせて頂く。本当言うたら金光大神是は、金光大神だけではない。是は私の場合もそうです。盆も無からなければ正月も無い。けれども天地の親神様には、正月もありゃ大晦日もある。神様の心を心としてという事になって来るとです。
矢張りいかにも元日のような気持ちで、又は「日が暮れたら大晦日と思うて」と言うような生き方をしておるようであっても、いつの間にか汚れておる。いつの間にか穢れておる。それを祓うて頂く御祭りが、今日の御祭りであるとこう思うのです。私ども今頂いておる信心が果して、子に孫に迷わず伝えて行く事の出来れる確信を、お互い持っておる人が、幾人あるだろうか。
そこで改めて、自分の信心を問い直してみなければならない。そこから実意のようであっても形だけである。実意のようであっても、内容だけであって、形と内容が足ろうていない。そういうものを正させて頂いて、新たな年を迎えたいと思います。そう言う事をもって、心にいや神様に、誓わせて頂く事を持ってです。一年中の御礼の印とも、又はお詫びの印ともさせて頂きたいと願うものでございます。
どうぞ。